ノンパン

ベトナム航空で衝撃的な思い出は初めて”飛行機”で痴漢というものをされた事だった。

その後山手線五反田~目黒間で痴漢をされた示談金でGWにベトナムへの旅行を決行した訳だから聊かそういうものに縁があるのかもしれない。

旅で何かを得たかというと毎回そうではない気がする。寧ろ何かを捨てる事ができると言ったほうがしっくりとくる。

もしかしたら日本人の集団が好きじゃないのかもしれないし、或いは異国の地で”なりたい自分”が表現できるのが心地いいのかもしれない。これは取り立てて日本社会が悪いと一方的に糾弾できるわけではなく、自身が人の目を気にしすぎている事に原因があるのかもしれない。

”好きな人といる時は、

自分の事も好きになる”

誰かが言っていた言葉をふと思い出したと同時にそれは誰かから言われた言葉でもあった。

個人的に他人の恋愛観をうんぬん言う訳ではないが。

”もうお帰りになるんですか?”とカフェの店員が聞く。

ええ、今から日本に帰りますと告げると、ああ惜しい、ずっと君の事を見ていました、できればお茶をしようかと誘おうと思っていた、と残念そうに言われた。

日本人であることも理由だがカンボジアでは相当に気に入られる事が多い。

ベトナムでもそうだったのかもしれない。滞在中に2回ほど知り合った男性にI LOVE YOUと告げられた。

”そんな1日で知った女に好きだなんて、私の価値も下がったもんだ”

ホイアンはやっぱり好きな街だが、ダナンは今回で嫌いになった。


(お前は他人を勘違いさせる”くせ”があると友人や先輩に言われた事がある、だから今まで何人も傷つけたかもしれないし、私に返ってきたのは今まで自分が他人にしたことへのカルマなのかもしれない。)

人は確証の持てない不安がある時には実体のない事にすがるものだ、だから過酷な状況だったり、ライフラインとしての豊作を祈るために古来から宗教が発展されてきた。

様々な歴史を経てそれは多種多様に変わった。特に現代の日本人には馴染みが薄いが本来の形は人々の不安からの払拭でもある。

「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」

(ヘーゲル法哲学批判・序説)

そんな自分にリンクしたのは意外にも大学時代に少し学んだマルクス主義の思想だった。当時チベット・中国問題を扱うにあたって毛沢東の文化大革命を理解する必要があった。

 
わたしの中の東南アジアは何か憧れだとか”神格化”されたものだったのかもしれないが、ある程度の滞在で日常化された今は知る由もない。

そのような事を考えてふと可笑しくなってしまった。

”アヘン”になってしまった恋愛は当面は懲り懲りだけど。



シェムリアップで会った特徴的なお兄さんにハッパの話を聞く。

”そういうの、使うのはいいけど、一緒にやる人は選んでね”

”ええ、むしろお兄さんかおじさんに盛られて、効いてきちゃったね、今から気持ちよくなろうねって言われたほうがいいと思うんですが。”
やってみたいと思ったら最後だからこれが帰国予定日でよかった。

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